昭和四十年七月二日朝の御理解


 信心をいよいよ深めて行く為には、いよいよ自分と言うものを深く見極めていかなければならん。信心とは自分自身を、いよいよ掘り下げて行く事であり、自分を見極めて行く事だと。本当の愛はです。ところがなまじっか少し信心が、分るようになりますと、信心のより薄いもの、自分より薄いものを見ると、信心のないものを見ると、その信心のないものやら信心の薄い人達の足元ばっかりが見えるのです。
信心せん人達ばっかりは、あそこばあげなふうに言わよかとこに、あんなふうに思い方があるのに、と言ったふうにですね。少し信心が分らせて頂いた為に、かえって人の足元が分ってくる。少し自分が信心の道にならせて頂いたら、信心の道になってない人達が、よう非がハッキリ見えて来るような事では、自分自身を見ておると言う事も、見極めて行きよると言う事も言えないと私は思うんです。ね。
そこでわたくしは思うのですけどもね、自分の信心の状態と言うものが、どういう状態にあるのかと、言う事を見極める為にです、人の足元に気がついて気がついてたまらん時には、もういよいよ持って自分の信心、自分は自分の足元を見極めてない、見ていないんだと言う事を悟らなければいけん、ね。人の足元ばっかり見える時にはです、ね、いよいよ自分の足元、こうまわりを見とる(?)、ね。ですからその足元が見える訳です。(?)までは見とるわけ。本当に自分の足元をこうやってです、自分、いわば地を低うしてです、自分の足元ばっかり見とる時には、人の足元なんか絶対見える筈はないです。
もう本当に謙虚に実意丁寧に、本当にもうどんなに考えても、わたくしのようなものがと、わたくしのようなものがと言う風に、地が低うなって来れば来る程にです、もう人の足元なんかどうでも見えんのです。
主人の足元が見えて来る、家内の足元が見えてくる、舅ばばさんなんか足元が見えて来る。嫁御の足元が見えて来る。そこに夫婦不和、親子の不和、ね、家庭の不和があるのですよ。これはだから自分のとこだけではない。自分の職場に置いても然り。ね。自分の周囲の誰かの(?)でもおなし事。
いつものお話しに中に、笑い話に頂きますように、向かいの嫁さんばっかりは、どうしたそのろくそない人じゃろかと、ね、障子どん貼りゃよかとに、向かいの方が見える訳です。ね、もう本当にああー言うずんだらばいち、言うてから笑いよる、その嫁さんが自分かた障子の破れから、それが見えよった。笑い話のようであっていっちょん笑い話じゃないですよ。ね、自分の心の破れから、人の足元が、ね、あんやつばっかりは、
ほんなこつこすからいやつじゃある。あればっかりはきたない奴じゃある。あればっかりは根性が悪い、自分の根性の悪い、自分のきたないそこから流れておるのですよ。ね、そこんとこ思うたら恥ずかしゅうなるくらいな信心に、お互いがひとつならないけんとわたしゃ思う。ね、今日わたくしご神前出らせて頂いたら、ここのあるご信者さんなんです、キチッとこう袴をはめてるんですよね、
すこーしこころば低めにはいとる、まチョットこうきりきりと上にはきやらんと、少しこうずんだれたような感じではいとる、だもんだから自分の足元がいっちょん見えからん、袴ばこうはいとうから、それでわたしは思う、袴をはいておると言う事はです。、やはりキチットした歩み?の信心がでけておると言う事です。もう自分が少しヒマならヒマでも出きるようになる、
キチットした信心が出きるようになると、もう信心が出来ない家内の事が、目について目についてしようがない、自分の周囲のものが、ほんとあすこんにきがあげんなったら、よかけれどもと言う風にです、ね、確かにだから信心でもさせて頂くようになりましたら、あれはもうひとつの言葉で申しますなら、ごしょ根性と言う事。自分がすこん?ごしょ願いよるもんですから、
少し信心しよるもんだから、もうごしょならない?人達が、もうあげな事しよるならあんやつは地獄行き、自分の地獄行きの事は分らんでから、人の地獄行きの事どん言いよる。ね、自分がすこーしばっかり、??入れたからと言うて、ごしょを願う道がわかったら、ごしょ願わんものの、言わばありかたがそう言う風に見えて来る。ね、もう兎に角人の悪口を言う、
てんなんてんち言う事はもう、恥ずかしゅうて言われざるこっちゃない。ほんーとうにどこまでもわたくしでは分らんから、わたくしがいたらんから、ね、そこからわたくしは有難いものが頂けて来る。そこから真実の改まりがでけて来る。昨日一昨日朝の御祈念の後に、調度秋永先生と高橋さんが前後して、お礼に出て見えられたんです、お話の中に申しましたように、
今度の債権を自分の商売と言うものを、もうやりっぱなしなんですよね、全然もう商売をかえり見てない、もう兎に角御造営御造営の事ばーかりで、頭んイッパイなもんだから、商売に身がいらん、こりゃ少し性根入れてから、せないけんと思いますと、明日これこれであってはまとまった手形もございますから、どうぞよろしゅうと言うて、その事のお願いがあったり、
えーそれから他の御造営に対する、大事な問題もございましたから、その朝見えたんです。その時にえー先生が話しておりますのにです、最近私フットきずかせて頂いている事なんですけども、親先生どんなもんでしょうか、なんだろうかって言ったら、最近総代幹部の中にです、御造営の事に対して非常に、非協力な方達がある事に気がついて来たとこう言うんです。
しかもそんな事であってはならない、ね、ようはそんな話が出た時は、皆んながその中心になろうとまで言うておられた人達がです、こうわ?御造営に対しての非協力ではなくてです、わたくしに対する、非協力的になっていると言う事を感じ、いよいよ責任を感じます為に、わたくしは委員長を退かせて頂く、そんなものは持ちませんけれども、考えれば考える程、
その人達にはお詫びさせて頂いてでも、協力して貰わなければ、今度の事は出きるこっちゃありませんからなーと言って、しみじみ話されます。わたくしはそれ聞かせて頂いて、ほんなこつばいそりゃ先生、ね、にさんああたの事についてこう言う事を聞いておる。そうですよそう言うような事が、あたくしが本当にその腹にもない事を、ポンポンとこう口で言ったりするもんですから、
ね、たったしかそう言うような事が、ひっかっかって非協力的な事に、その人がなられると言う事は、御造営その事にも不浄がつく。成就にそれだけさまたげになる。だからそう言う人には先生もう、協力して貰わんでもいいじゃないですか。と言うのではなくて、どこまでもその人達に私が詫びてでも、協力???ではなし、そこにあたくしも助かれば、その方達もおかげが頂ける、
道を本当に開けていかなければいけんと言う事を、今度委員長と言う大きな大役を、務めさせて頂くようになって、そんな事が分らせて頂きます、先生ああたからもう仰られるまでもなく、わたしゃ本当に最近気づかせて頂いております。と言うてから言うております。ね、これなんかいよいよ自分の足元が見えて来た、訳なんですよね委員長は、それが信心でしょうが、
それが椛目で日頃頂いている信心なんですよ。??おかげ落としから面白い事ちったようなです、やはり考え方では委員長勤まらないと言う事です。普通ならだからそりゃあたくしがとても勤まらんから、ひとつ誰かに代わってもろうて下さいと言うとこでしょうけれども、ね、そこでわたしゃ秋永先生の信心の、見習わせてもらんならんところがあると言う風に感じておるんですけどもね、
皆さんどうでしょうか、自分の足元を見ると言う事、その事が信心だと例えば言うても良いくらい。自分自身が本当にわかると言う事。ね、それにです、わが少しばかりごしょう願うから、少しばかり信心の道を分らせて頂いたからと言うて、言わば自分の周囲の誰かれの事ばかりが、足元が見えるような時には、いよいよ自分の足元を疎かにしておる時であり、
自分の足元を見極めて行かなければ、危ない時でもあると言う事を、悟らせてもろうて、ね、こりゃもう本気でです、もう信心が信心にもうその身がいってきてです、ね、本当に自分ぐらいの者を、よー神様ここまで?おかげ下さって、勿体なしと言うようなです、有難しとか、勿体なしとか言う時には、人の足元なんか確かに見えるもんじゃないです。より有難しが、
勿体なしが自分の足元だけしか見えんのです。ね、そこからあたしは良い信心が育って来ると思うんですが、ひとつここで改めてです、ね、秋永先生じゃないですけれども、改めて自分の周囲ではなくて、自分の中身に信心の眼を、開いていかなきゃいけんと。ね、そこからあたくしはしみじみとした有難さ、そのしみじみとした有難さの中からです、勿体ない程のおかげと言うような、おかげになってこなければならんと思うのでございます。
(終わり)